2011年3月11日

東日本大震災から15年

「がんばって」「がんばれ」「がんばろう」。
  あのとき、たくさんの“がんばれ”が被災地に届いた。

  でも、“被災地の子ども”だったわたしたちが本当に必要としていたのは、
「それでいいよ」かもしれない。「諦めるな」かもしれない。
  一人ひとりのその瞬間に必要な言葉があった。

「がんばって」

「がんばれ」

「がんばろう」。

  あのとき、
  たくさんの“がんばれ”が被災地に届いた。

  でも、“被災地の子ども”だったわたしたちが
  本当に必要としていたのは、
「それでいいよ」かもしれない。
「諦めるな」かもしれない。
  一人ひとりのその瞬間に必要な言葉があった。

「がんばれ」じゃない言葉が、
  わたしを動かした

「がんばれ」
  じゃない言葉が、
  わたしを動かした

10代だった私

伴走者

の言葉

東日本大震災のあと、被災地には多くの支援が集まりました。

そのなかには、地域の子どものために、
学習支援や居場所をつくり、挑戦を後押ししてくれた人がいました。

被災当時、仮設住宅での生活や家庭の事情から、
学びや進路を諦めかけた子どもも少なくありませんでした。

そうした子どもに寄り添い続けた“伴走者”との関わりの中で、
今も記憶に残っている言葉を集めました。

当時10代だった子どもが、大人になった今、
支えになった「忘れられないひと言」を通して、
関わりの意味を見つめ直します。

東日本大震災のあと、被災地には多くの支援が集まりました。

そのなかには、地域の子どものために、学習支援や居場所をつくり、挑戦を後押ししてくれた人がいました。

被災当時、仮設住宅での生活や家庭の事情から、学びや進路を諦めかけた子どもも少なくありませんでした。

そうした子どもに寄り添い続けた“伴走者”との関わりの中で、今も記憶に残っている言葉を集めました。

当時10代だった子どもが、大人になった今、支えになった「忘れられないひと言」を通して、関わりの意味を見つめ直します。

※エピソードは順次公開されます。

支えられた経験を、
つぎの災害を生きる子どもへ

震災のとき、わたしは宮城県気仙沼市で暮らす中学3年生でした。
あの頃を思い返すと、そばにいてくれた人の顔が、いくつも浮かびます。
あとになって、あれは「伴走支援」と呼ばれる関わりのひとつだったと知りました。
支えられた経験が、支える側になりたいと思うきっかけになりました。

いま、わたしはカタリバで災害時の子どもの支援や
能登半島地震での支援活動にも関わっています。
そこで実感したのは、こうした支援を届けるためには
想い、社会からの共感や理解、支え続けるための資金が必要ということです。

この企画は、あの頃、東北に支援をしてくれたすべての人への感謝と、
わたしたちが受け取った「一歩を踏み出す後押し」を、
つぎに災害を経験する子どもたちへ手渡していきたい。

「支援」は特別な人だけがするものではなく、
共感したり、賛同したり、関わることで循環していくのではないか。
その循環への接点として、この取り組みを立ち上げました。

阿部愛里

from: 気仙沼

認定NPO法人カタリバ 本プロジェクト 呼びかけ人

支えられた経験を、
つぎの災害を
生きる子どもへ

震災のとき、わたしは宮城県気仙沼市で暮らす中学3年生でした。あの頃を思い返すと、そばにいてくれた人の顔が、いくつも浮かびます。あとになって、あれは「伴走支援」と呼ばれる関わりのひとつだったと知りました。支えられた経験が、支える側になりたいと思うきっかけになりました。

いま、わたしはカタリバで災害時の子どもの支援や能登半島地震での支援活動にも関わっています。そこで実感したのは、こうした支援を届けるためには想い、社会からの共感や理解、支え続けるための資金が必要ということです。

この企画は、あの頃、東北に支援をしてくれたすべての人への感謝と、わたしたちが受け取った「一歩を踏み出す後押し」を、つぎに災害を経験する子どもたちへ手渡していきたい。

「支援」は特別な人だけがするものではなく、共感したり、賛同したり、関わることで循環していくのではないか。その循環への接点として、この取り組みを立ち上げました。

阿部 愛里

from: 気仙沼

認定NPO法人カタリバ 本プロジェクト 呼びかけ人

東日本大震災から、支援のバトンパスを。

あなたの

SNSシェア

で、

100円が

災害時の

子ども支援

寄付されます

期間中、カタリバ公式SNSの対象投稿をシェアすると、おひとり1回のシェアにつき、100円が災害時の子ども支援に寄付されます。

集まった寄付金は、認定NPO法人カタリバが行う災害時子ども支援プロジェクト「sonaeru」を通して、これから起こる災害で子どもを支えるために使われます。

SNSシェア寄付期間:2026年2月1日〜2026年3月31日

SNSシェア寄付期間:
2026年2月1日〜2026年3月31日

※この寄付は、本企画に賛同した企業からの寄付金で行われます。あなたのシェアというアクションが、その寄付を動かすきっかけになります。

Step 01

投稿を見つける

カタリバ公式SNS(X・Instagram)に掲載されたSNSシェア寄付対象の投稿をみつける。

Step 02

シェアする

対象の投稿をシェアすると、おひとり1回につき100円が、災害時の子ども支援として寄付されます。

※この寄付は、本企画に賛同した企業からの寄付金で行われます。あなたのシェアというアクションが、その寄付を動かすきっかけになります。

Step 03

寄付が、災害時の子どもへ届く

寄付が、
災害時の子どもへ届く

集まった寄付金は、認定NPO法人カタリバの災害時の子ども支援プロジェクト「sonaeru」を通じて、これから起こる災害で子どもを支える活動に使われます。

ご支援・

ご協力企業

(一部紹介・順不同)

この取り組みの想いや趣旨に共感し、ご寄付等でこの取り組みに関わっている企業の皆さまです。

この取り組みに共感し、新たにご寄付等をご検討くださる企業・団体の方は、こちらの窓口よりお問い合わせください。

賛同したい企業の方

※お問い合わせフォームの内容欄に「震災15年企画への協力について」とご記入ください。

株式会社ウィルグループ

ドクターリセラ株式会社

Yahoo!ネット募金

ご支援・

ご協力企業

(一部紹介・順不同)

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ドクターリセラ株式会社

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賛同したい企業の方

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認定NPO法人

カタリバ

どんな環境に生まれ育った10代も、未来を自らつくりだす意欲と創造性を育める社会を目指し、2001年から活動する教育NPOです。高校への出張授業プログラムから始まり、2011年の東日本大震災以降は子どもたちに学びの場と居場所を提供するなど、社会の変化に応じてさまざまな教育活動に取り組んでいます。

災害時子ども支援「sonaeru」とは

災害が起こると、子どもは強いストレスを抱えた環境で過ごすことになります。また保護者も頼れる先がないなど、孤立する状況が生まれます。 sonaeruはこうした状況を前提に、避難所などで子どもの居場所を開設する支援を中心に、子ども・子育て家庭に必要な支援を届けています。これまで東日本大震災をはじめ、九州豪雨、能登半島地震・奥能登豪雨、大船渡市山林火災などで支援を実施してきました。本企画で集まった寄付は、次に起こる災害で、発災直後から子ども・子育て家庭を支えるために活用されます。

※これまでの活動実績

詳しく知る

東日本大震災から、

支援のバトンパスを。

"被災者"じゃなくて、きみの話が聞きたいんだよ」

Rさん

from: 女川

at: 女川

age: 20代

職業: 教育業

被災状況: 自宅・ご家族ともに被害なし

この一言をくれたのは、高校時代の合宿プログラムで出会い、その後も関わり続けてきた東北各地で活動するNPOの方です。震災のあと、東北の高校生が集まる場で何度も顔を合わせるうちに、気づけば背中を追いかけるような存在になっていました。

家も家族も無事だった私は、「自分は本当に被災者と言っていいのか」と迷いながら、周りからそれを求められている気がして、実際の体感よりも悲しさ・苦しさを誇張して「被災者っぽい話」をしてしまうこともありました。その違和感を打ち明けたときに返ってきたのが、この言葉でした。

「被災者かどうかじゃなくて、きみが何を感じてきたかを聞きたいんだよ」

「ラベルじゃなくて中身で向き合っていいんだ」と気づいた瞬間でした。誰かの期待に合わせて話をつくるのではなく、自分が何を感じ、どう生きたいのかをまっすぐ見ていいんだと思えるようになりました。

今、女川で子どもと関わる仕事をしています。「この子は"こういう子"だから」と決めつけず、その子自身の言葉に耳を澄ますことを大事にしています。私が伴走してもらったように、「君が何を感じてきたのか知りたい」と伝え続けることが、今の私にできる恩返しだと思っています。

どんな道でも、必ず繋がってるから大丈夫」

Mさん

from: 気仙沼

at: 気仙沼

age: 30代

職業: デザイナー

被災状況: 自宅全壊被災

当時の私は消失感や不安に押しつぶされそうな日々を送っていました。

私は、津波によって家を失いました。それに加え、親と離れて暮らしている私を育ててくれている、唯一の心の拠り所の祖母が震災の半年後に亡くなってしまって。

度重なる出来事に「自分はこの先どうなっちゃうんだろう…」と思っていました。

そんな日々で支えになったのが、大好きな「音楽」でした。部活はもちろん軽音楽部。それ以外にも音楽で被災地を盛り上げようとする大人たちと出会い、いつの間にかその人達と、音楽イベントやフェスの運営のお手伝いなど、色んな思い出を共にしてきました。

高3のある日、ライブハウスに向かう道中、憧れていた方に「音楽の裏方の道か、まちづくりを学ぶか、迷っているんです」と打ち明けたところ、

「好きなことに全力で取り組んでいたらどんな道に進んでも、必ずどこかで繋がってるから、大丈夫だよ」と。

「選んだ瞬間に、選ばなかった方を失う」と思い込んでいた私は、と肩の力が抜けました。
その一言をきっかけに、私は“まちをつくる仕事がしたい”とコミュニティデザインを学び、今は地元に戻ってデザイナーとして地域の仕事に関わっています。

振り返ると、どの選択もつながって今の私になっていると感じます。あの日の一言は、今も背中を押し続けてくれていると感じています。

幸せに生きててくれたらそれでいいよ」

Cさん

from: 気仙沼

at: 気仙沼

age: 20代

職業: -

被災状況: 自宅・ご家族ともに被害なし

その言葉をくれたのは、高校生の頃から気仙沼での活動を支えてくれていたNPOの大人たちです。大学進学で仙台に出たあとも、何かにつけて気にかけてくれていました。

進学してからの私は周りの目を気にして「役に立てているのかな」「このままの自分でいていいのかな」と、ずっと不安定でした。期待に応えなきゃと力んでは空回りして、思い詰めたこともあります。そんな時も引き続き私の話をきいてくれました。

ある時、その胸の内を思い切って話しました。

「そんなに向き合ってくれるのは、私にどうなってほしいからなんですか?」

「何をしていてもいいよ。ただ、自分が幸せだなって思える人生を生きてくれたら、それでいいんだよ」

その瞬間、背負い込んでいた“期待”の重さがふっと軽くなりました。成果で返さなきゃと思い込んでいたけれど、まずは自分が幸せでいていいんだ、と思えました。

あの日以来「何をするか」より「どう生きていたいか」を軸に考えるようになりました。今、地域食堂を気仙沼の各地でひらき、小さな居場所をつくる活動をしているのも、あの言葉とつながっています。

誰にでも「幸せでいてほしい」と願う気持ちを、今度は私が次の誰かへ手渡していきたいと思っています。

まずやってみよう」

Yさん

from: 大槌

at: 大槌

age: 20代

職業: NPO職員

被災状況: 自宅全壊被災、祖父母を津波で失う

この言葉をくれたのは、高校時代に私の挑戦を支えてくれた、地域のNPOの方でした。震災で自宅を失い、祖父母も亡くしました。それでも生まれ育った地区で「何かできることをしたい」と思っていました。

ただ、やりたい気持ちはあるのに、何から動けばいいのか分からず、最初の一歩が踏み出せずにいました。

思い切って迷いを打ち明けた時、もらったのが「じゃあ、まずやってみようよ!」という言葉でした。

そこから毎日のように小さな作戦会議が始まりました。

「集会所でお茶会を開いてみたい!」
「まず一緒に集会所に挨拶に行ってみよう」とか
「参加者はどう集めたらいいのかな?」
「まずチラシをもって近所の人に声をかけてみよう」とか。

単に手順を教えるのではなく、私と一緒に活動してくれているような心強い関わりでした。

ついに開いたお茶会では、地域のおじいちゃん・おばあちゃんが津波で亡くなった祖父母にお世話になったと、私の知らない昔話をたくさん聞かせてくれました。
「この地区のために」と始めた取り組みが、自分自身を支える時間になっていました。

いま私は、母校の中高生の勉強や探究活動を支える仕事をしています。正解を渡すのではなく、一緒に悩み、地域の人とつなぐ役割を大切にしています。あのとき、隣で伴走してくれた姿を、自然と受け継いでいるのだと思います。

「まずやってみよう」。
あのひと言は、今も私の背中をそっと押してくれています。

やりたいこともできる。役に立つこともできる」

Mさん

from: 大槌

at: 東京

age: 20代

職業: 大学院生

被災状況: 自宅全壊被災、母、弟、妹を津波で失う

僕は小学2年生のとき、震災を経験しました。算数の小テストに丸をつけた瞬間、教室が大きく揺れ、高台から津波が町をのみ込んでいくのをみました。その後、母と幼い弟、妹を亡くし、自宅も全壊したと知りました。

震災当時は幼く、何もできなかった。その感覚は、成長してからも心に残り続けていました。高校で出会った探究活動の場で、僕は「防災」をテーマに動き始めます。資料を集め、地域の人に話を聞きながら、どうすれば、あの時家族を守れたのかを考え続けました。

けれど、時間が経つにつれて、学業や部活に追われる日常に戻っていきました。問いは消えたわけではないのに、向き合う余裕がなくなり、少し距離を置いてしまっていました。

そんなとき、探究活動をサポートしていた地域の大人から、こんな言葉をかけられました。

「やりたいこともできる、役に立てることもできる。どちらもできることだけど、防災は色んな経験をしたあなたにしかできないことかもしれない。」

その一言で「やりたい・やりたくない」しかなかった自分の選択肢に「役に立てること」という軸が生まれ、被災した経験も含めて、自分の人生を受け止められた感覚がありました。

僕が探究活動を通じて提案した「津波到達の可能性が迫っていることを理解してもらうために、発災時の防災無線のアナウンスに地震からの経過時間も伝える」手法は、地域で採用されました。

大学生になった今も、高校時代にもらった「やりたいこともできる。役に立つこともできる」という言葉は、いまも僕の選択を支え続けています。

カタチにすることがすべてじゃない」

Mさん

from: いわき

at: いわき

age: 20代

職業: 大学生

被災状況: 自宅・ご家族ともに被害なし

震災当時からずっと引っかかっていたのは「自分は"本当の被災者”なのか?」という感覚です。

私は幼い頃に福島で震災と原発事故を経験しました。一時的に避難はしたけれど、家も家族も亡くしていません。どこかで「本当の被災者ではない」と線を引いていました。

原発事故の影響を受けた地域にある高校に進学し、その問いはむしろ強くなりました。

そんな時、子どもの頃に大好きだった遊び場が、原発事故の悲惨さを伝える展示に変わったと知りました。「あ、私も大切なものを失くしていた」。その瞬間、自分にも戻れない場所があったのだと気づきました。

その出来事を通して、第三者から当事者に切り替わったような感覚になりました。

ただ当事者になったからといって、すぐに何かが分かるわけでも、語れるわけでもありません。
だからこそ私は、悲劇を語るのではなく、揺れ動く気持ちをどう抱えるか、どう折り合いをつけるかを考え続ける方が自分に合っている、これを高校の探究活動のテーマにしようと思いました。

カタチのない活動に意味があるのか、周りと比べて進捗が生まれてないような焦りを感じていた時に、そばで支えてくれた大人に「カタチにすることがすべてじゃないよ、考え続けることもちゃんと意味がある」と言ってもらえました。

成果物が弱いと自分を責めていた私は、その言葉で肩の力が抜けました。モヤモヤを深めることも、前に進む一つのカタチなのだと知りました。

いま大学で社会学を学びながら、震災後の避難や共生のあり方を研究しています。A・Bで割り切れないものを、急いで結論をださないでいられる場をつくりたいと思っています。
問いを抱えることを弱さではなく力として扱える人でありたいと思っています。

最近どう?」

Yさん

from: 富岡町

at: 福島市

age: 20代

職業: NPO職員・語り部

被災状況: 家族・自宅は無事だったが原発事故で避難生活を送り、自宅は取り壊し

私は小学4年の時に原発事故による避難を経験して、中学卒業まで避難先で過ごしました。家族が避難先に永住すると決めた時、私は生まれ育った福島県富岡町の近隣にある高校で寮生活をしながら暮らすことを決めたんです。

その高校では演劇の授業があり、地域の方にインタビューをして、それを演劇で表現する授業がありました。その授業を通じて、地域のお肉屋さんのような、いわゆる社会課題という言葉では切り取れないような、住民レベルのリアルな課題がみえてきました。

私は農業に関心があり、地域の小さな直売所に通い始めました。坊主頭の高校生が制服姿で毎日やってきて、はじめは農家さんたちも驚いていたと思います。

ある時「畑を貸してあげるよ」と声をかけてもらい、気づけば自分で野菜を育てることになっていました。「最近どう?」「畑どう?」「この人紹介してあげるよ」と連絡をくれて、子ども扱いせず、この地域に住む社会の一員としてフラットに接してくれました。

その後も「最近どう?」の一言から、また関係が広がっていき、農家以外にも、地域で情報発信をしている人、移住してきた人などとつながっていきました。

そのような経験をして、地域に貢献したい思いが強まる一方で、家や遊び場、小学校が次々と解体されていく姿をみて「思い出が町から解体されてなくなっていく」感覚も強くなったんです。

高校入学当時は「将来富岡に戻りたい」とあれほど言っていたのに、自分の知っている場所や、「ここが地元だ」と言えるものが消えていくと、以前のような熱量で「戻りたい」と自信を持って言えなくなっていきました。

地域の方に相談すると、気持ちを受け取ってくれた上で、自分の人生を歩んで良いと言って背中を押してくれました。私は進学を決め、大学を卒業して、今は社会人として福島で教育や地域に関わる仕事をしています。

学校の探究活動をサポートするコーディネーターのような役割で、高校生に伴走しています。「高校生だから」とレッテルを貼らずに、困った時に「この人に話を聞いてもらいたい」と思える一人になれたらと思っています。

失敗してもいいからやってみよう」

Tさん

from: 大熊町

at: 大熊町

age: 20代

職業: 公務員

被災状況: 家族・自宅は被害なしだが避難生活を送り、自宅は取り壊し

私は東日本大震災のとき、小学4年生でした。正直、震災当時は何も分からないまま避難に動くしかなくて、それが自分のなかではとても大きな不安と怖さとして残りました。

普段なら15分くらいで着く距離の避難場所も、道路の陥没や渋滞で30分以上かかりました。高校生になった自分は、子どもが災害を経験しても、自分と同じような怖い思いはしてほしくないという気持ちから「避難経路」をもっと楽しく覚えられるプロジェクトに取り組みました。

具体的には「地域の避難ルート+楽しいこと」をかけ合わせて、楽しみながら覚えたら、いざという時に身体が動くと思ったんです。

地域のお祭りのお神輿ルートに避難道を入れてもらえないか提案したこともありました。運営の事情もあり、思うように実現できず何度も打ちのめされて「やめようかな」と思った時、かけてもらったのが「失敗してもいいから、まずはやってみよう。失敗から学べることもあるんじゃない?」という一言でした。

失敗をしてもそこから学んで、次につなげていけばいいと言ってもらえたことで「できなかった自分」ではなく「次の行動にどうつなげられるか」という、自分の伸びしろに目を向けられるようになりました。

その後、お祭りの時の失敗を糧に、幼稚園生と一緒に散歩しながら歩いたり、イベントを実施したりなど、子どもや大人向けにも何度も開催しました。

いま、私は公務員として防災の現場にも関わっています。原点には自分が辛い思いをしたからこそ、他の人にはしてほしくないという想いがあります。だからこそ、地域の方々にとって必要なことをしっかり届けていきたいという気持ちで活動しています。